「お初にお目にかかります、プリンス・オブ・シウヴァ。オスカー・アンドラーデです」
エストラニオ外務省主催のパーティで、壮年の男性に声をかけられた蓮は、「はじめまして、セニョール・アンドラーデ」とあいさつを返す。
差し出された手を握りながら、その名前と脳内のデータを照らし合わせた。
オスカー・アンドラーデ。建築界のノーベル賞と評されるプリツカー賞を受賞したブラジル・モダニズム建築の第一人者。
膨大なストックデータの中から該当するデータを引き出し、高名な建築家に話しかける。
「三年後に建て直しが決定している外務省庁舎の設計を担当されるとお聞きしています」
アンドラーデが大きく目を瞠った。
「これはこれは……聞きしに勝る聡明さだ。しかも美しい。外務省の職員からシウヴァの若き総帥の噂は耳にしておりましたがここまでとは。失礼ですが、おいくつですか?」
「先月十七になりました」
「十七! どうりで若葉のような瑞々しい肌をお持ちのはずだ」
自分の何倍もの年齢の、しかも世界的な建築家に賛美の言葉を並べ立てられて当惑する。どうリアクションすればいいのかわからなかった。シウヴァの持つ権力にすり寄る輩ならば適当にあしらえばいいが、どうもこの建築家はそうではない気がする。すでに世界的な成功を収め、仕事にも困っていないはずだ。
それともうひとつ、いつまでも握られたままの手が気になっていた。自分から解いていいものだろうか。
握る手がどんどん汗ばんできており、そこに気を取られていると、アンドラーデが熱い口調で語り始める。
「エストラニオと我が祖国ブラジルは友好国ですが、南米の発展のためにも、この先いっそう絆を深めていきたいものです」
放すどころか、さらにもう片方の手を添えて、蓮の手を包み込むようにぎゅっと握ってきた。
「そのあたり、シウヴァの当主としてのご意見を伺いたい。私はまだ数日エストラニオにおります。よろしければディナーなどご一緒にいかがですか?」
「…………」
どう返答をすればいいのか。きっぱり断ってしまっていいのか。それでは外務省の顔が立たないのか。
(でも、食事は絶対嫌だ。この人、なんとなく苦手だ)
強ばった表情を見られないように俯くと、アンドラーデが片方の手を放し、蓮の肩に置いた。
「プリンス・オブ・シウヴァ?」
下から顔を覗き込むようにされて、肩がぴくんと揺れる。とっさに目の前の男を突き飛ばしそうになった。
(だめだ。それは……だめだ)
懸命に自分に言い聞かせる。
どうにか事を荒立てずに逃れる術を案じながら、脳裏にひとりの男の顔が浮かんだ。そして、そんな自分に舌打ちしたくなった。
なんでもすぐに頼ろうとする癖をどうにかしなければ。
これくらい自分で対処できなくてどうする。
ぎゅっと奥歯を噛み締めて顔を振り上げる。アンドラーデと目を合わせ、口を開きかけた時だった。
「蓮様」
背後から声が届く。聞き慣れたその低音に、不覚にも、張り詰めていた緊張の糸がふっと切れた。
振り返った蓮は、そこに『守護神』の姿を見た。長身をダークスーツに包んだ偉丈夫は、シウヴァの中枢セクションに所属する蓮の側近だ。
「鏑木……」
大きな歩幅でたちまち距離を詰めてきた鏑木が、建築家に話しかける。
「セニョール・アンドラーデ。蓮様の世話役を務めさせていただいております、鏑木です」
鏑木が右手を差し出したので、必然的にアンドラーデは蓮の手を放さなければならなくなった。
不承不承といった面持ちで鏑木と握手をするアンドラーデから、蓮はそっと離れた。さりげなく鏑木の背後に回り込む。
「世話役……というのは秘書のようなものか?」
鏑木の手はすぐに放したアンドラーデが質問してきた。
「いいえ、秘書は他におります。私は、いわば後見人のようなものです。蓮様はまだ未成年でいらっしゃいますので」
「……ほう」
アンドラーデが片方の眉を持ち上げる。
「たったいまプリンスをディナーにお誘いしたところだが、きみの許可が必要なのかな?」
鏑木が「はい」と肯定した。
「食事のお誘いでしたら、私を通していただきますようお願いいたします。蓮様のスケジュール管理も私が行っておりますので」
アンドラーデの目をまっすぐ見据え、愛想笑いのひとつも浮かべず、鏑木が淡々と告げる。
鏑木の恵まれた肉体から発せられる威圧感に、アンドラーデが鼻白んだ様子で肩をすくめた。
「……わかった。きみの連絡先は?」
鏑木がスーツの胸元からカードケースを取り出し、ビジネスカードを一枚抜き出す。
それをピッと奪い取り、アンドラーデが胸ポケットに挿し入れた。
「では失礼する。プリンス、またいずれ」
最後に蓮に片手であいさつをして、アンドラーデが立ち去っていく。
男の姿が視界から消えた瞬間、蓮はふーっと息を吐き出した。
「ありがとう。助かった」
まずは鏑木に礼を言う。結局、鏑木の手を煩わせてしまった自分が腑甲斐なかったが、撃退してくれて本当に助かった。
「手を握ったまま放してくれないし、食事の誘いを断っていいのかもわからなくて困っていたところだった」
説明しながらハンカチを取り出し、手を拭ったが、まだアンドラーデの不快な手の感触が消えない。
「パウダールームに行きたい」
そう頼んだ蓮は、鏑木と一緒に会場を出て、少し離れた場所にあるパウダールームまで足を運んだ。
シンクで手を洗う。ソープをつけて入念に泡立て、水で洗い流した。
その間、後ろの壁に凭れて待っていた鏑木が、蓮がカランをきゅっと捻るのと同時に口を開いた。
「気をつけろ」
正面の鏡越しに、蓮は鏑木と目を合わせた。その段で初めて、鏑木の機嫌が悪いことに気がつく。
「なにが?」
「おまえは隙があり過ぎる」
憮然とした表情で鏑木が言った。
「見知らぬ男に手を握らせたり、肩を掴ませたり、油断し過ぎだ」
当てこするような物言いにむっとして、つい喧嘩腰になる。
「あれは握手だ。それに振り払ったら外務省が困るかと思って」
「外務省のメンツなんて知ったことか。いいか? あいつと食事なんか行ってみろ。酔わせて無体を働くくらい朝飯前だ」
「どういうこと?」
意味がわからず、蓮は眉をひそめた。酔わせて無体?
「だって男の人じゃないか」
「あいつはゲイなんだよ。しかも節操がない。有名な話だ」
ゲイ?
一瞬、その単語の意味を考えて、あっと声をあげる。
「そうなのか……!」
でもこれで、スキンシップ過剰だった理由がわかった。
「遠目からおまえたちを見つけた瞬間、ぞっとした。おまえを執拗に舐め回すあいつの目。……くそ!」
苛立たしげに吐き捨てる鏑木を、蓮は不思議そうに見やる。自制心が強い鏑木が、こんなふうに感情を露にするのはめずらしい。
違和感を抱くのと同時に、心の奥底から、なにやら甘酸っぱい感情が込み上げてきた。
(なんだろう? この感じ……)
訝しんでいる間に、鏑木が近づいて来る。ポケットからハンカチを取り出し、蓮を振り向かせた。濡れた手をハンカチで包み、水分を拭き取ってくれる。
「いいか? これからは男だからって油断するなよ」
怖い顔で念を押された蓮は、甘い感情の正体がわからないままにこくりとうなずいた。
終