床に黒い体を横たえていたエルバは、ぴくっと身じろぎしたあと、丸い耳を前後左右に動かし、ピンと張った髭を震わせた。鋭敏な聴覚が、微かな靴音を捉えたからだ。
近づいてくる靴音は二種類。カツカツと軽めの靴音とコツコツと重めの靴音。どちらも、エルバがよく知っている靴音だった。
やっと帰ってきた。
エルバが鎖に繋がれず、自由に動き回れる場所は限られている。日中はこの部屋の中だけだ。若い頃と比べ、だいぶじっとしていられるようになったが、それでも横たわってばかりでは体がなまる。遊び相手が帰ってきたのはうれしかった。
のっそりと起き上がり、前肢を突っ張って、ぐーっと伸びをする。その後、タタタッとドアに駆け寄った。この部屋の主人を出迎えるためだ。
ドアの前でうろうろしていると、二種類の靴音が大きくなり、やがて止まった。ガチャリと鍵を開ける音。ギィーとドアが開き、まずは黒い服を着た背の高い男が室内に入ってくる。重い靴音の主で、名前は鏑木。
その後ろから、ほっそりとした青年が現れる。彼の顔を見て、匂いを嗅ぐと、エルバのテンションは自然と上がった。
大好きな──蓮。
ジャングルで共に育った兄弟。
蓮は罠にかかって死にかけていた自分を救ってくれた。それからの日々、どこに行くのも一緒だった。もう一人、アンドレもいたが、蓮との結びつきのほうが強かった。
成長するに従い、どうやら蓮は「人間」で、自分とは種族が違うことに気がついたが、それでも絆が薄れることはなかった。
人間の言葉は、ジャングルの動物たちより複雑で難しいが、蓮との意思疎通で困ることもなかった。
「エルバ、ただいま」
蓮がそう言って屈み込み、エルバの首筋を撫でる。
「グォルウウ」
おかえりと応え、エルバは歓迎の印に喉を鳴らした。蓮が頸に手を回し、ぎゅっと抱き締めてくる。蓮の匂いに包まれ、幸せな気持ちになった。離れていた蓮との再会──エルバの好きな時間だ。
「エルバ、待たせてしまったな。今日は最後にパーティが入っていて遅くなった」
事情を説明して、鏑木が自分の頭を撫でる。一番好きなのは蓮のマッサージだが、この男の手もなかなか気持ちいい。
一時期、蓮がジャングルからいなくなったことがあり、寂しさから餌を食べることができなくなった。日追って生気を失っていた自分を迎えに来たのがこの鏑木だ。
──蓮がおまえを待っている。一緒に蓮のところに行こう。
蓮以外の人間の言葉が、理解できたのは、この時が初めてだった。
この男についていけば蓮と会えるのだとわかって、自分から檻の中に入った。迷いはなかった。
それからの歳月のほとんどを、石の屋敷の中で過ごすことになったが、悔いはない。蓮と共にあることが、自分の「生」であると思うからだ。
二人がかりで気の済むまで撫でてもらって満足したエルバは、床にごろんと転がり、毛繕いを始めた。しばらく全身を舐めることに夢中になっていて、ふと気がつくと、二人の姿が見えない。床から起き上がり、二人を捜した。匂いを辿って寝室に行き着く。蓮と自分が眠る部屋だ。
だがここ最近になって、自分たち以外にも寝室で眠る者が現れた。
鏑木だ。以前は、一緒に蓮と帰ってきても、鏑木はまた部屋から出て行った。 なのに、このところ、鏑木がそのまま蓮と一緒に過ごす時間が長くなってきた。そして、そんな時は必ず──。
エルバは鼻を蠢かせた。
そうだ。この匂い。いまも〝例の匂い〟がする。
鼻腔をぴくぴくさせながら、寝室のドアを鼻先で押し開ける。
寝室の中では案の定、蓮と鏑木が抱き合っていた。抱き合って、口と口を押しつけ合っている。
蓮がどうやら「これ」が大好きなようで、最近は、鏑木と二人きりになると、いつもこれをしている。
そして、そんな時の二人からは特別な匂いがする。
発情期の動物の匂いだ。エルバ自身、この匂いを頼りに繁殖の相手を探すことがあるのでわかる。ただし、ジャングルの動物が、この匂いを発するシーズンは限られている。
しかし、人間は違う。とても不思議なことだが、人間はずっと発情しているのだ。正確には、発情のためのなにかのスイッチがあるらしいのだが、エルバにはよくわからない。
とにかく、このところの蓮は発情期らしい。そして、その発情スイッチを押すのは、必ず鏑木なのだ。
エルバは口を吸い合う二人に近づき、その脚の周囲をぐるりと回った。体を押しつけ、「グルウ」と声を出してみる。口吸いに夢中になっている二人から反応はない。
そのうちに二人は、口をくっつけ合ったまま、寝台に倒れ込んだ。やっと口を離したかと思うと、鏑木が蓮の服を脱がしにかかる。蓮も鏑木の服に手を伸ばし、脱がし始めた。
交尾が始まるのだとわかった。これまで何度も見ているからわかる。
こうなってしまうと、しばらくは構ってもらえなくなるので、つまらない。今日は帰りが遅かった分、もう少し遊んでもらいたかった。
エルバは床からフットベンチに飛び乗った。あわよくば、構ってもらえる隙はないかと寝台の様子を窺う。
二人はもう衣類を身につけていなかった。そもそも、なぜいつも服を着ていなければならないのかわからない。裸のほうが楽だし、動きやすいに決まっている。その証拠に、服を脱ぎ捨てた二人は生き生きしている。どこか楽しそうに、お互いの体に触れ合い、口をつけ、舐め合っている。
鏑木に舐められて、蓮はとても気持ちがよさそうだ。赤ん坊が親に甘えるような、鼻にかかった甘い声をひっきりなしに出している。鏑木も、そんな蓮に保護欲をかき立てられるのか、一生懸命、蓮の体を舐めたり、撫でたり、吸ったりしている。
鏑木にかわいがられて、蓮がすごく幸せを感じているのは、エルバにも伝わってくる。幼い頃からずっと一緒にいる自分たちは、お互いの気持ちがわかるのだ。
少し前のこと、蓮はとても弱っていた。餌も食べず、夜も眠れないようだった。蓮が苦しんでいるのに、なにもできない自分が悲しかった。自分では、蓮を笑顔にすることはできない。そっと身を寄せて、涙を舐め取ることしかできない。
蓮を笑顔にできるのは鏑木だけだと、その時知った。
ちょっと悔しいけれど、エルバも鏑木は好きだし、一目置いている。初めて会った時から、他の人間みたいに無闇に自分を恐れたり、忌み嫌ったりせず、仲間として受け入れてくれた。ジャングルでも勇敢だし、リーダーの資質があるのもわかる。
だからといって、雄同士の交尾は謎だ。繁殖のためではないのはわかるが、では一体なんのためだろう?
今回も不思議に思い、二人に尋ねようと喉を鳴らす。
「グオルルル……」
すると、鏑木の下になっていた蓮がこっちを見て、「エルバ!」と驚いたような声を出した。自分の存在をすっかり忘れていたようだ。
その声で、蓮に覆い被さっていた鏑木も振り返った。少し困ったような顔で寝台から降り、側まで来て、エルバの頸をペちペちと叩く。
「いい子だから少しの間、隣の部屋で待っていてくれないか? あとでゆっくり遊んでやるから。な?」
宥め賺すような声音を出され、またかと思った。交尾が始まるといつもこれだ。
「エルバ、ごめん」
蓮にも申し訳なさそうな声で謝られる。仕方なく、了承の印に尾をぱたんと打ちつけた。フットベンチから床にとんっと降り立ち、薄く開いたドアから出る。
結局、今日も交尾の理由はわからなかった。でも、交尾のあとの蓮からはとびきりいい匂いがして、幸せそうなのがわかるので、まあいいかと自分を納得させる。
蓮が幸せであること。エルバにとってなにより、それが一番大切なのだから。
終