岩本薫×蓮川愛 「Prince of Silva シウヴァシリーズ」特設サイト
碧の王子
碧の王子


 密林の中で突然のスコールに見舞われた。目を開けていられないほどの雨は初めてだ。
 といっても、記憶障害の自分の記憶など当てにはならない。なにしろ、生まれて三十有余年の記憶を失ってしまったのだから。
「蓮!」
 鏑木は、激しい雨に往生している蓮の腕を掴んで引っ張った。ジャングルで生まれ育った蓮にとっても、ここまでのスコールは予想外だったようだ。二人でバシャバシャと泥水を跳ね上げながら、なんとか小屋に辿り着く。丸太の梯子を上がると、軒下でずぶ濡れのエルバが待っていた。ドアを開けて小屋の中に入る。
「酷い目に遭ったな……ブーツの中まで水浸しだ」
 鏑木はワークブーツを脱ぎ、逆さにした。大量の水が零れ出る。
「部屋の中がびしょ濡れになる。ここで服を脱ごう」
 蓮に声をかけ、シャツとワークパンツを脱ぎ取り、下着一枚になった。だが蓮は鏑木に続くことなく、髪や衣類からぽたぽたと雫を垂らして立ち尽くしている。訝しく思い、「蓮、早く脱げよ」と急かした。
「風邪をひくぞ」
「あ……うん」
 脱いだあとに体を拭くものが必要だ。そう考えて、「タオルを取ってくる」と言い残し、部屋の奥へと移動する。パウダールームで、ざっと体と髪の水気を拭き取ってからバスローブを羽織り、新しいタオルをピックアップして戻った。
「脱いだか?」
 後ろ向きの蓮に問いかける。うなずいた蓮がのろのろと回転した。股間を手で隠した蓮と、向かい合う形になる。
「………っ」
 自分と同じ男の裸だ。なのに、まるで違う。
 濡れた黒髪が張りついた小さな顔。内側から発光しているような白い肌。すんなりと長い手足。しなやかでいて、どこかエロティックな体のフォルム。
 予想外のものを見た気分で、鏑木は瞠目した。やがて、見開いた両目をじわじわと細める。
「…………」
 自分の食い入るような視線を感じ取ってか、蓮は居心地悪そうにしている。他人の裸をこんなふうにじろじろ見るのはおかしいとわかっていたが、どうしても目が離せなかった。
 自分でも理由がわからない。目の前の肉体は、ほっそりと華奢ではあったが、明らかに男のものだ。女性のような膨らみも、くびれもない。
(なのに……なんでだ)
 なぜこんなにも……なまめかしく感じてしまうのか。
 困惑しながらも、鏑木の目は蓮の裸体に釘付けになり、無意識に視線でディテールを辿った。
 少し緊張したような白い貌から細い首筋、淡い飾りがついた胸、平たい腹部までなぞり、手で隠された股間を見た瞬間だった。
 とっさに、あらぬ衝動に囚われ、鏑木は狼狽えた。
 あの手を引きはがして、隠されている股間を見たいという衝動だ。
 蓮の裸体を余すところなく、すべて、つまびらかにしたい。体の隅々まで、この目で確認したい。
 ──征服したい。
 腹の下からこみ上げてきた熱い欲求にめまいがした。
(……あり得ない。相手は男だぞ?)
 自分たちが男同士でありながら、恋人関係であったと聞かされたのは一昨日のことだ。告白と同時にくちづけられた。
 蓮が嘘をついたりする人間ではないとわかっていたし、彼の唇の感触を知っている気もした。だからといって簡単に受け入れられるものではない。また、安易に受け入れていい関係でもない。自分の返答いかんによっては、蓮の人生に大きな影響がある。蓮はただの十八歳ではない。シウヴァの当主なのだ。
 時間が欲しいと告げ、昼に夜に真剣に考え続けたが、答えは出なかった。このまま、答えが出ないままに休暇が終わるのかとも考えていたが……。
 だがここに至って、鏑木は、自分の中に蓮に対する欲情があることを、認めざるを得なかった。病院のベッドで目覚めて以降、生々しい欲望を覚えたのは初めてだ。
 いまにも飛びかかってしまいそうな自分を懸命に抑え込んでいると、蓮がこくっと喉を鳴らした。生々しく響く音に肩が揺れる。気がつくと鏑木は、引き寄せられるように蓮に近づいていた。
 一歩手前で足を止める。視線の先の白い貌は強ばっていた。大きな目が潤み、唇がかすかに震えている。自分の様子に異変を感じているのかもしれない。
 思えば、かわいそうなことをした。自分が記憶を失ってしまったことで、ただでさえ相当なショックを受けたはずだ。なのに自分は彼を忘れてしまっただけでなく、告白にも応じなかった。あてどなく待たされて、辛かったに違いない。  蓮の心境を思うと、切なく胸が痛んだ。
 怯えさせないように、手に持っていたバスタオルを広げ、濡れた頭に覆い被せる。黙ってタオルの上からごしごしと髪を拭いた。
 あらかた水気を拭き取ってから、今度はバスタオルを肩にかける。白い裸体が隠れた。見えなくなってしまえば欲望が収まるかとも思ったが、その当ては外れた。
 収まるどころか、さっきよりはっきりと、体内の昂りを感じる。すぐ手のとどく場所に、欲望の対象があられもない姿で立っていることに対する興奮。
「……ありが……」
 男としての原始的な欲求に突き動かされた鏑木は、感謝の言葉を紡ぐ蓮を、バスタオルごと抱き締めた。
「かぶら……ぎ?」
 虚を衝かれたような声。身を固くする蓮をきつく抱き締め、鏑木はその耳許に囁いた。
「……すまなかった」
「……なに?」
「この数日、俺がはっきり答えを出さなかったから不安だっただろう。ただでさえ俺の記憶障害できみには強いストレスがかかっているのに」
 抱擁を解き、至近から蓮の顔を覗き込む。内心の動揺を表してか、黒い瞳が揺れていた。
「正直に言って、この数日はとても混乱して……迷ってもいた。きみと恋人同士だったと言われても、にわかには信じられなかったし、安直に受け入れていい問題でもない。一人でよく考えて、頭を整理する必要があると思ったんだ。だから時間が欲しいと言った」
 つまり、答えが出たのか?
 蓮の顔がそう問いかけてくる。
「答えは出た」
 鏑木は肯定した。
「完全に記憶が戻ったわけではないが、もう迷いはない。たったいま自分の気持ちを確信したからだ」
「確……信?」
 蓮のつぶやきにうなずき、重々しく告げる。
「きみを愛していた自分を思い出した」
 すぐには実感がわかないのか、蓮の顔に歓喜はなかった。
「寂しい思いをさせたな。でももう大丈夫だ」
 一刻も早く安心させたくて、微笑みかける。
「俺は自分を取り戻した。きみを愛している自分を取り戻したんだ」
 唇を開き、なにか言おうとする蓮を、たまらずぎゅっと抱きすくめた。
「……蓮」
 噛み締めるように名前を呼ぶと、腕の中の体がぴくっと震える。おののきをダイレクトに感じ、愛おしさがこみ上げてきた。
「……愛している」
 言葉にして、想いは確信に変わった。
 そうだ。愛している。この青年を。
 愛していた。もうずっと以前から。
 蓮がおずおずと両手を背中に回してくる。体と体がぴったりと重なり合った。愛する者と抱き合う喜びにしばし酔いしれたのち、腕の力を抜き、密着していた体を離す。
 視界の中の蓮の顔には、先程まではなかった歓喜と興奮が浮かんでいる。目を閉じた彼に誘われるように、鏑木はゆっくりと顔を近づけた。
 今度こそ、みずから恋人にくちづけるために。

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